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執筆者の写真王様企画

学術的エロ本について

更新日:2020年4月20日

ご無沙汰しております。

マツモトミザリーです。

突然ですが私、

ジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」という本がお気に入りなんです。

人間誰しも三大欲求には抗えないわけで、

例に漏れず私もド直球なタイトルに惹かれて手に取ったわけですが、

これが、まあ、面白い。

以前から「私たちはなぜ演劇をするのか」

という疑問から、

「人間の非生産的活動の根源は性欲である」

という命題がぼんやり頭にあったのですが、

それを証明する理論をバタイユの思想の中に見つけた気がするのです。

この場をお借りして、ちょっと思考の整理をしてみようと思います。

『人間は同時に2つの衝動に従っている。

反発させる恐怖と、否応なく尊敬の念を呼び起こす魅力とである。

禁止と侵犯は、この2つの矛盾した衝動に対応しているのだ。

禁止は反発させるが、魅力は侵犯を惹起する。』(バタイユ「エロティシズム」より)

キイワードは「禁止」と「侵犯」

面白いは、この「禁止」が外部から強制されるのではなく、

ヒトが自ら作ったものであるということ。

バタイユによればヒトは「暴力(その究極は死)」を禁止し、

その対極である「労働」に従事することによって動物性から脱し、

今の理性的な人間になったのだそう。

しかし、人間は自らの手で科した禁止を破ること(侵犯)に悦びを見出だすのです。

この悦びがエロティシズムの正体。

ここでエロティシズムは性的な事柄に限定されません。

わかりにくければ校則を破って学校にお菓子を持ち込んだり、

仕事をサボって喫茶店に入ってみたときの甘い気持ちを思い浮かべてください(笑)

暴力の禁止は「弔い」という行為にも表れているのだそうです(エロスとタナトス!)。

暴力を禁止し、労働に従事することで人間は理性的な社会を発展させてきたわけですが、

その中に死が訪れると、人々は逃れられない「暴力」の存在を思い出します。

そこで人間は、死者を弔い死体を隠したり整えたり(埋葬etc)することで、

圧倒的暴力(=死)を 覆い隠し、理性的な社会を守ろうとするのです。

「禁止」と「侵犯」は「美」と「醜」に置き換えることもできます。

(ちなみにこの「美」と「醜」は「生」と「死」にも読み替えられます。)

「美」は侵犯によって「醜」に、

「醜」は禁止によって「美」へと変えることができます。

『醜さを穢すことはできないという意味で、

エロティシズムの本質は穢すことだという意味で、

美はこの上なく重要である。

禁止を意味する人間性は、エロティシズムの中で違反される。

違反され、冒涜され、穢される。

美が大きければ大きいほど、それだけ穢すことも強烈になる。』

(バタイユ「エロティシズム」より)

※「醜さを穢すことはできない」というのは「穢す」=「美を醜に変える行為」であるため醜は不可侵であるということ。

人間は、禁止すること(規律や法則を守ること=労働=生産的活動)に安寧を、

その禁止を侵犯すること(非生産的活動=飽食、生殖を目的としない生行為etc)に快楽を

見出だすという性質を持った生き物。

侵犯の快楽を理性的な社会から逸脱せずに求める行為の1つとして、

演劇を含む「芸術」が存在するのだと思うのです。

なんか、チラ裏な話を長々と書いてしまってすみません。

それにしても、

性欲こじらせてバタイユ読み始めるアラサー女って普通にやばいな。

マツモトミザリー

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