過去にないほど「人とつながる」時代に、その関係を一時的に断った瞬間からはじまるもの。それが演劇だと思う。
それは誰かと秘密を共有する時の息遣いに似た、世界からの乖離だ。
2020年が終わろうとしている。
未曾有の1年を生き抜いた私たちは、つながりが断たれているのか、あるいは過剰なつながりに巻き込まれているのか、それさえ判断できない状況にいる。
こうした混沌を不安と呼ぶのだろう。
恐怖が死に対する闘争の現れなら、不安は死を忌避し隠そうとする怯えだ。
こうした怯えの中では、人と人とが出会い、他者を認め、新たなコミュニティを構築することは困難だ。
しかし私たちが今抱える不安のすべてが、感染拡大を続けるウイルスに由来するものだとは到底思えない。
この1年の出来事は、すでに進行していた社会の変化が具体化しただけに過ぎないと思う。フェイクニュース、コミュニケーションの消耗品化、ヘイトスピーチなど…いまだに私たちは高度に情報化した社会で生きていくための有効な手段を見いだせていない。もうごまかしは効かないのだ。
この不安の根底には複雑化しすぎたつながりがもたらす混沌があると思う。この混沌は、演劇を含めたあらゆる分野の芸術にとって障壁となるだろう。
しかし私は、この不安への抗体としての演劇の力を信じている。「秘密の共有」がもたらす、既存の癒着や分断を超えた共同性の力を。
観劇とは体験だ。そこで発せられる言葉や事象は、劇場に訪れた人(あるいはインターネット上の空間にアクセスした人)だけが目撃可能なものだ。それは舞台をつくる者と鑑賞者の間だけで共有可能な「秘密」なのである。
それは恋人同士が見つめ合い、沈黙のなかで閉ざされた時間を過ごすときの熱に似ている。それと同じ熱を、演劇は全く違う形で生じさせることができるはずだ。
「秘密の共有」は、高度に情報化された複雑極まる現代社会の中で、泥の中のダイヤモンドのように光る、どこまでもシンプルなつながりのあり方だ。
もし演劇に社会的機能があるのなら、それは集団化した労働を支柱とした社会で、失われた孤独を回復する時間の提供だと思う。そこで発せられる単なる言葉や事象が、私たちの間だけで共有される秘密となるまでにそこにあったもの。それを私は演劇と、芸術と呼びたい。
少しでも多くのつながりが花開くように、私たちは「秘密」を社会に生み出しつづけなければならない。
これが今、私が演劇をやめない理由です。
以上、マツモトミザリーでした。
コメント